和田本家(和田利右エ門家)[三重県員弁郡大泉原村]

ブログ | 2012/5/31 00:59
まずは登場人物のまとめですが、読み飛ばし可能です。和田利右エ門家は、直系では利右エ門一人の名前しかわかっていません。利右衛門、利右衞門、利右ヱ門の表記のゆれが考えられます。
【家系図はこちら】

和田本家(和田利右エ門家)は、高祖母の父である和田藤八の実家にあたります。

【経過】
2012/02/24
 高祖母の父、「和田藤八」が載っている除籍謄本をようやく発行してもらうことができました。「藤八」の経歴欄に、『慶應二年三月十五日當村當大字(身分削除)和田利右エ門長男分家ス』とあり、「藤八」父親欄にも『亡祖父利右エ門長男』と記載されていました(この除籍謄本は「藤八」の長男である「K次郎」が戸主のものなので、K次郎から見た続柄は祖父となるわけです)。「利右エ門」は、私の高祖母の祖父にあたるわけで、直系のご先祖様が新たに判明しました。久しぶりの感動でした。
 さて、この除籍謄本から次のことがわかりました。

・「藤八」は「利右エ門」の長男。だが、分家しているので、墓もおそらく別々。
・「利右エ門」家は「藤八」家と同じ大字。
・この除籍謄本が作成されたのは明治二十九年三月三十日、この時には既に「利右エ門」が亡くなっている。

 ただ、この時はとりあえず、「藤八」の除籍謄本がとれた感動があったので、「利右エ門」家については、真剣に考察しませんでした。

2012/05/15
 「藤八」家の墓をもう一度よく見てみようと、墓地に訪れました。そこで、ふと、「利右エ門」家の墓が在るとするなら、この墓地にあるはずと思いつき、どうせ見つからないだろうくらいの軽い気持ちで墓石を探し始めました。「藤八」家の墓は墓地の割と奥にあるので、その近くの和田姓の墓などを注目しました。が、ありません。諦めて帰る際、墓地の入口付近に立派な和田姓の墓があることに初めて気づきました。ありました、「利右エ門」の文字が。墓石は結構新しいのですが、『慶応三年十二月 祖々父 利右エ門 七四』とあり、年代もまず間違いないようです。さらに注目すべきは、その左隣には、『明治四四年九月 祖父 R八 六七』とありました。この「R八」さんは、祖々父と表記されている「利右エ門」の子と考えるのが自然だと思います。我が高祖母の父、「藤八」の弟にあたるのでしょうか、「八」の名前が共通でした。
 墓石の裏にははっきりと、ご子孫の名が刻まれていました。新しい花も供えられていました。ご子孫の名前を電話帳で調べたところ近い住所に該当がありました。まず間違い無いと思っています。そのご当主も、墓を建てられた年代から推測すると、私の祖父母世代、結構ご高齢だと思います。
 墓石からは他に、没年月と没年齢がわかるので、次のことがわかりました。

・「利右エ門」は寛政7年くらいの生まれ。
・「利右エ門」長男「藤八」は文政12年生まれ、「R八」さんは弘化3年くらいのお生まれ。17歳差ですが、この時代ならよくあることのようです。
・「利右エ門」29才で「藤八」誕生、51才で「R八」さん誕生のようです。これもこの時代ならあり得るようです。
・「利右エ門」家から「藤八」が分家したのは、慶応二年なので、「利右エ門」が71歳、「藤八」が37歳、「R八」さんが20歳くらいの時になります。ちなみに、このすぐ次の年に「利右エ門」は亡くなりました。

【人物】
 和田利右エ門[寛政7~慶応3]は、私の高祖母の祖父にあたります。長男の「藤八」が載っている戸籍に名のみ現れましたが、その後墓地でもそれらしきお墓を見つけました。なぜか長男の「藤八」は分家し、弟と思われる「R八」さんが後を継いだようです。妻の名前は戸籍と墓石からはわかりませんが、「R八」さんの戸籍には記載されているかもしれません。

【今後これ以上遡るのに考えられる方法】
・勇気を出して、墓石と電話帳にある現当主らしき方へ手紙を出す。

※何かご存知の方、関わりがありそうな方々メールまたはコメント宜しくお願いします。m(__)m
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梶家[三重県員弁郡平野新田→山郷村→北勢町→いなべ市]

ブログ | 2011/11/2 15:17
まずは登場人物のまとめですが、読み飛ばし可能です。梶家は、梶重五郎が最も遡れるご先祖ですが、妻の名前がわかりません。長男の彌五兵衞が継いでおり、梶彌五兵衛、または梶彌五兵エ、梶彌五兵ヱの表記のゆれ、他に新字にするなら梶弥五兵衞、梶弥五兵衛、梶弥五兵エと梶弥五兵ヱなどがありえます。妻の梶みしは、片山家から嫁いでおり、片山みしでした。二人の三女の梶すへが市川家に嫁ぎ、市川すへとなりました。

【家系図はこちら】

梶家は、養曽祖母市川すへの実家にあたります。現在でも市川家現当主と梶家の親戚付き合いはあるようで、数年前、梶家の現当主の奥さんが亡くなった時に、伯父夫妻が葬儀などに出たと耳にしました。私はそこで初めて梶姓の親戚が居ることを知り、父に関係を尋ねたところ、

「多分、実家のおじいさん(市川家四代目源十郎)の代の奥さんの実家かなんかじゃないか」

おぼろげながらも珍しく知っていました。久しぶりに祖父哲二が作成した市川家家系図を見てみると、確かに梶家から、すへが嫁いできていることが記述されていました。
三十年以上生きてきて、全く知らなかった親戚が居ることに驚き、このことも家系に強く興味を持つきっかけとなりました。

その後梶家は戸籍がとれたので、ある程度はわかりました。墓は住所地の共同墓地にあることを確認したのですが、墓石は新しいものの、戒名のみで俗名がわからないので、墓から読み取れることはほとんどありませんでした。
現当主はご高齢ながらお元気のようで、父でも名前を知っているようでした。実は私も、ある病院の待合室でお姿をお見かけしたことがあります。取得できた戸籍にも載っており、特徴的なお名前なので、覚えのある「梶○○○さーん」という看護師の呼び出しにハッとして見たものです。よっぽど声を掛けたかったのですが、ご当主からしたら、「叔母が嫁いだ家の分家の二代目」なんて顔も存在も知らない訳で、遠くから眺めるだけにとどめておきました。

墓地の様子からするに、現当主であれば戸籍からわかる情報以上のものをお持ちだと思います。一度お聞きしたいとも思いつつも、直接の血の繋がりがない子孫って、どう思われるんだろうとも考えてしまって、何も行動にうつせていません。お元気そうとはいえご高齢でいらっしゃるので、後悔したくないのですが…。

梶彌五兵衞[天保11~明治39]は、私の養曽祖母の父にあたり、先代重五郎の長男です。養曽祖母のすへは三女で、市川家四代目、源十郎に嫁ぎました。明治5年の壬申戸籍編成前までに先代は亡くなっており、戸主になっています。死亡により長男の芳太郎に家督相続されました。明治19年式戸籍の中で亡くなっていることもあり、母の名前が戸籍からわかりません。

梶みし[嘉永2~大正9]は、私の養曽祖母の母にあたり、明治5年に片山家から梶家当主彌五兵衞に嫁ぎました。

梶重五郎[?~?]は、私の養曽祖父の祖父にあたり、梶家で戸籍で遡れる最も古いご先祖です。長男彌五兵衞の戸籍で名前のみ確認できます。明治5年の壬申戸籍編成前に死亡による家督相続が行われているようです。彌五兵衞が天保11年(1840年)生まれなので、重五郎が15歳~45歳であったとするなら、寛政7年(1795年)~享和~文化~文政8年(1825年)生まれと推測されます。妻の名前は戸籍ではわかりません。

【今後これ以上遡るのに考えられる方法】
・現当主がわかっており、そこまで疎遠でもないので、伯父に紹介してもらう。
・墓地では戒名しかわからないが、ひかえてないので控えておく。
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和田家(和田藤八家)[三重県員弁郡笠田村→員弁町→いなべ市]

ブログ | 2011/10/31 23:08
まずは登場人物のまとめですが、読み飛ばし可能です。和田藤八家は、和田利右エ門家から和田利右エ門長男の藤八が分家して始まりました。和田藤八と妻は和田たい、長女の和田者つ、和田はつは、市川家に嫁ぎ、市川者つ、市川はつとなりました。
【家系図はこちら】

和田藤八家は、高祖母市川者つ(はつ)の実家にあたります。

【経過】
2008/06/27
 市川源十郎戸籍から、「源十郎」の母、「者つ」の実家が和田家であり、父「藤八」、母「たい」であることがわかりました。住所から見ると市川家と同じ大字のようなのですが、集落内の墓には一つも和田姓が見当たらず、不思議に思っていました。

2008/07/18
 「和田藤八」「たい」で戸籍を調べてもらうと、「和田藤八」で名前が一致する人が居たそうでした。係の方も頭を悩ませてもらったのですが、娘である筈の「者つ」の名前が無かったことから、繋がりが証明できないからと除籍謄本の発行は見送られてしまいました。

2008/12/05
たまたま隣の集落の墓を別件(傍系の分家の墓探し)で調査していたところ、和田姓の墓が多いことに気づきました。不思議に思っていたところ、冊子を持ってうろうろしていた私に、近所の方らしいおじいさんに声をかけられました。分家した家の墓を探していること、直系で和田家があるのだが、戸籍にある集落の墓には見当たらず、この墓地にはたくさんあるのを不思議に思っていると伝えました。すると、

「ああ、ここの大字は昔その大字名(戸籍にあった大字名)で、そこから分かれたんだよ」

と教えてもらって大変助かりました。そのうち、もう一人顔見知りらしいおじさんも話に加わってくれ、高祖母の父母名(「和田藤八」「たい」)を見せて心当たりがないかと尋ねました。

「江戸時代の人じゃあなあ…」

と言いつつもお二人は、

「多分、H兵衛さん所かもしれないが、もう跡を継ぐ者が出ていってしまって…今はどうなっているか…絶えてしまったんじゃないだろうか」

そのH兵衛さんは、おじいさんの古い記憶からして「おじいさん」と呼べるほどの歳のようで、

「これがその墓だよ」

と、現代の墓が並ぶ墓地の中にたった一つ、ぽつんといかにも無縁らしい小さな江戸時代の墓を案内してくれました。一緒にいたおじさんは、

「ああ、これ、あのH兵衛さんの墓なんだ」

と初めて知ったようでした。おじいさんの話では、

「このH兵衛さんの子供の名前がH八と言って、あなたの探しているご先祖の名前と一致する部分がある。推測でしかないけども」

というような話をしてくれました。

「私も昔、先祖探しをしていたが、桑名市に行き着いてそこから先がたどれなくなった」

という話もしてくれ、私の調査も好意的に、且つ励ましてくれた記憶があります。どうやらお二人は和田姓だったようなので、今にして思えば、ずうずうしく連絡先をうかがっておいて、この地域のきっかけを作っておけば良かったとも思います。

2011/09/18
 市川家法事にて、市川家伯父に和田家について尋ねてみました。
「和田家は昔、たった一度だけ法事に行ったことがある。確かに隣の集落にあったが、今はもう多分無いぞ」
とのことでした。従兄弟伯父も同意していました。

2012/02/24
 長女である「者つ」の生年から、「藤八」の生年を推測し、大まかな居住地域を指定し、改めて除籍謄本を申請してました。熱意が通じたのか、こちらが用意した情報と矛盾が見当たらないからか、「和田藤八」が隠居して在籍する、長男が戸主になっている除籍謄本を発行してもらえました。実に三年越しで、この時の感動はとても大きく、出してくれた係の方にどれほど感謝したかわかりません。これにより、「藤八」は、「利右エ門」の長男であることがわかり、さらに一代遡れました。長男なのですが、利右エ門家から分家したとあるので、今後、分家した「藤八」は、和田藤八家初代とし、利右エ門家は和田本家とします。
 その足で墓地へも行きました。「和田藤八」、「たい」の名前が見つからず、無縁仏になっているのかと諦めかけ、やはり最後にもう一度と見て回ると、発行した除籍謄本に出てくる名前を見つけました。「藤八」、「たい」の名前は入っていませんが、先祖代々となっているのでここに眠っていることは確実とみなしました。その墓は、「藤八」の長男の五女の名前で、和田姓のままで建てられていました。
 伯父達の情報から、無縁になっているのかもと思っていたものの、花は飾ってありました。同じ敷地で、すぐ隣に別姓の墓がありました。この墓は、除籍謄本によると「藤八」の長男の嫁の両親の墓のようでした。このことからも、この墓が和田藤八家のものであるのは間違い無いです。同じ花が供えられていました。果たしてどちらの家のご子孫がお参りされているのでしょうか。

【人物】
和田藤八[文政12~明治33]は、私の高祖母の父にあたります。父和田利右エ門の長男で、長女の者つが市川家三代目、甚右衞門に嫁ぎます。者つの父として名前のみ確認できます。者つが安政3年(1856年)生まれなので、藤八が15歳~45歳であったとするなら、文化8年(1811年)~文政~天保12年(1841年)生まれと推測されます。明治19年(1886年)に存命であれば、45歳~75歳なので、戸籍に載っている可能性もあります。大正5年に編成された戸籍では、亡になっているのでその時点では亡くなっているようです。実は過去にいなべ市役所で、この姓名が記載されている戸籍はあったようでしたが、結局番地が伝わってないことで、者つとの繋がりが証明できず、発行してもらうことはできませんでした。長男なのですが、慶応2年に、利右エ門家から分家しています。明治29年に長男K次郎に家督を譲り隠居しました。子は長男K次郎の戸籍に、弟Y蔵が藤八三男として存在しているので、少なくとも三男一女はあったようです。

和田たい[?~?]は、私の高祖母の母にあたります。高祖母の市川者つが最初に登場する明治19年式戸籍では現れませんが、大正5年に編成された子の源十郎の戸籍に者つが載っているお陰で、名前が判明しています。生年を藤八と同様の推測をするなら、文化8年(1811年)~文政~天保12年(1841年)生まれ、大正5年迄には亡くなっているようです。夫藤八が隠居し、長男K次郎の戸籍が編成された明治29年には名前がないので、既に亡くなっているようです。

【今後これ以上遡るのに考えられる方法】
・伯父夫妻が法事に出ていることから、香典帳に関わりのある方の名前が載っている可能性が高い。
・香典帳から次代以降の当主の名前が判明したら、旧土地台帳から、その大字の土地を虱潰しに参照して番地を探す。ただし、藤八の名前だけだと生きた年代から考えると載っている可能性は低そう。それと、上述の通り、同姓同名の和田藤八が居るのなら危険。
・番地と次代当主の名前から除籍謄本を再度請求してみる。
・もう一度墓を探す。上述のH兵衛さんの墓をもっと丁寧に撮っておく。一応。
・和田藤八が分家した初代で、別に本家が存在していることを夢見て和田姓の方々に手紙を出す。→なんとこの願い通りだった。本家の跡取りさんもいらっしゃるようなので、手紙を出す。

※何かご存知の方、関わりがありそうな方々メールまたはコメント宜しくお願いします。m(__)m
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市川又左エ門家[三重県員弁郡笠田村→員弁町→いなべ市]

ブログ | 2011/10/29 08:53
まずは登場人物のまとめですが、読み飛ばし可能です。市川又左エ門は、市川又左ヱ門や、市川又左衛門、または市川又左衞門という表記のゆれが考えられるので注意が必要です。

【家系図はこちら】

市川又左エ門家は、高祖父の母である市川りゑの実家にあたります。私の姓である市川と同じですが、市川家の一員として戸籍にはでてきませんので、別家と考えられます。便宜上、市川又左エ門家としていますが、初代かどうかも全くわかりません。住所は同じ集落内で、同じ姓ということからもっと上の代で繋がっているかもしれません。
また、この又左エ門という名前で伯父や父、私ですら少し思い当たる節があります。近所の市川家で、「又」の字を名前に代々継いでいらっしゃる市川家があります。私はそういう家があるということをなんとなく知っていた程度ですが、父世代になると顔見知りのようなので、いずれ聞いてみると何かわかるかもしれません。ただ、唯一の接点となる又左衛門は相当昔の人なので、戸籍で繋がりを証明するのはかなり難しいとは思います。

市川又左エ門[?~?]は、私の高祖父の祖父にあたります。高祖父の母、市川りゑは長女で、市川家二代目の市川源次郎に嫁ぎます。市川りゑの戸籍に「弘化二年二月十七日本縣員弁郡笠田村大字○○○  市川又左エ門長女入籍ス」の文でのみ名前を確認できます。長女りゑが文政11年(1828年)生まれなので、又左エ門が15歳~45歳であったとするなら、天明3年(1783年)~寛政~享和~文化10年(1813年)生まれと推測されます。戸籍ができた明治19年(1886年)に存命であれば、73歳~103歳なので、戸籍に載っている可能性もあります。仮に100歳で亡くなったとしても大正2年(1913年)までで、それより後の存命の可能性は低そうです。

【今後これ以上遡るのに考えられる方法】
・「又」の字を継ぐ家を伯父に紹介してもらう。
・旧土地台帳から一番古い当主の名を調べ、その戸籍内に又左エ門と名前がわからない妻が入っていないか除籍謄本を請求してみる。
・集落内の墓地で又左エ門の名を再度探してみる。

※何かご存知の方、関わりがありそうな方々メールまたはコメント宜しくお願いします。m(__)m
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市川家[三重県員弁郡笠田村→員弁町→いなべ市]

ブログ | 2011/10/28 10:33
まずは登場人物のまとめですが、読み飛ばし可です。市川家初代、市川庄右エ門は、市川庄右衛門、市川庄右衛門または市川庄右ヱ門の表記のゆれが考えられ、市川庄助とも伝わります。市川家初代妻、市川里とは、市川りと読むかもしれません。市川家二代、市川源次郎は、市川源治郎とも伝わっています。市川家二代妻、市川りゑです。市川家三代、市川甚右衞門は、市川甚右衛門、市川甚右エ門または市川甚右ヱ門の表記のゆれが考えられます。市川家三代妻、市川者つは、市川はつと読み、元は和田家の和田者つ、和田はつです。市川家四代、市川源十郎は、幼名を市川榮次郎、市川栄次郎です。市川家四代妻、市川すへは、元は梶すへです。市川家五代、市川哲二は、元は松井家の松井哲二です。

【家系図はこちら】

私の姓である市川家です。現在の六代目当主が伯父にあたり、その弟で分家したOが私の父にあたります。というわけで、私自身は市川家分家市川O家の二代目になります。
父方祖父母が居た家でもあり、父だけでなく私にとっても実家というイメージがあります。両親が自営業だった私は学校が休みの日はよく預けられ、また七代目である従兄弟とも仲が良かったのでよく泊まったりもしました。

市川家は祖父哲二が簡単なものでしたが家系図をちゃんと遺しておいてくれたので、大変助かっています。祖父が亡くなった時、伯父がコピーしたものを我が家に分けてくれ、初めて家系図の存在を知り、とても興味深かったのですが、若かった私はそれを元に何か調べたり、まだしっかりしていた祖母Kに聞くこともしませんでした。(この家系図を以下哲二図と呼ぶことにします)

墓は近所の共同墓地にあります。幼い頃の記憶だと、各代毎に夫婦の墓が左から順々にいくつか並び、その中に一つだけ目立って大きく立派だったのが、五代目になる筈で戦死した亀太郎の墓でした。そして一番右の空いた場所は「私達が入るのよ」と祖母Kが教えてくれました。当時幼稚園ほどだったか、「これは誰の墓?誰が居るの?」などといちいち興味深く聴いてた私を、祖母は大変面白く思ったらしく、あとで伯父や父にさも面白そうに話してたことを覚えています。その頃から先祖というものに興味があったようでした。
今は五代目哲二が亡くなった頃に、一つの先祖代々の墓にまとめられ、代わりに墓誌が新たに設けられました。墓誌のお陰で読みやすいのですが、古い墓もちゃんと見ておきたかったなあと少し惜しくもあります。

順にさかのぼっていきます。

私の父は五代目哲二の次男になります。高校を卒業した後、福井の方の大学へ行き、卒業後そこで就職、結婚したので、十八年ほどしか実家で過ごしていません(三重には戻ってきましたが)。そのため、父に親戚関係のことを尋ねても「そういう事に興味を持つ前に家を出てしまったから」とおぼろげにしかわかりません。このことからも、ご先祖は自分で調べておかなければと思うことになりました。

伯父六代目は、五代目哲二の長男になります。本家の当主であること、父より四つ上ということもあって親戚先祖関係のことは当然詳しいです。最近ようやく家系図を作っているということを報告し、今後親戚などを紹介してもらうようお願いすることになると思います。本家としての過去帳は無いこと、お寺の過去帳も焼けて存在しないらしいということを聞きました。

祖父の五代目哲二[大正14~平成7]は、子がみんな亡くなってしまった四代目源十郎、すへ夫妻に養子として松井家より来ました。哲二の実母、松井つると源十郎は兄弟にあたります。市川家の血は入っていますが、私が男系でさかのぼると松井家にたどりつきます。哲二は教師だったので徴兵を免れたそうでしたが、広島で危うく原爆の被害にあうところだったとも聞きました。その後教育委員長、三重県北勢県民局長を勤め、三重県の植樹祭では昭和天皇をお迎えしたと聞きました。定年前は津市の商工会議所で常任理事という役職に就いていたように思います。その頃、一度だけ職場に行ったことがあり、大変立派なイスで、幼いながらに「祖父は偉いんだなあ」と思いました。私や父とは違って大変几帳面で読書家で収集家、井上靖やコイン、マッチラベル収集など数多くの影響を私に与えてくれました。元々が市川家でなかったのに、貴重な哲二図を遺してくれたことに感謝ですが、直接色々聞きたかったです。私の高校卒業後くらいに、転倒が原因とみられる脳出血で意識が戻ることなく亡くなってしまいました。悔やんでも悔やみきれないことの一つです。

祖母の五代目妻K[大正13~]は、四代目源十郎の弟の甚市の長女です。本家の隣に市川甚市家は分家として今もあります。本家を継ぐために養子に入った哲二に嫁ぎました。従兄弟同士になります。今でも「私は分家から本家へ(嫁に)行った」とよく言います。外で仕事をもっており、この年代の女性には珍しく、車の運転ができました。よくKが運転、哲二が助手席に居た光景を思い出します。七十代になり、認知症の兆候が出始めて車の運転を引退し、最後に乗っていた車は私の最初の車になりました。Kは健在ですが、認知症を患って十年あまり、日常会話は可能ですが昔の事はもうほとんど思い出せないようで、何か聞こうとしてもすぐ話を逸らされてしまうのがもどかしいです。極稀に興味深い情報を提供してくれますが、それが真実なのか、思い込みなのか疑わしくもあるのがまた残念です。子は伯父と父の男二人だけです。

養曽祖父の四代目源十郎[明治9~昭和29]は、三代目甚右衛門の長男で、幼名を榮次郎と言いました。父はうっすらと「牛を追っていた記憶がある」という程度です。弟の市川甚市家現当主(父の従兄弟)が、結構はっきり覚えているようで、「怖い人で、いたずらをした幼い自分達に本気で怒って追いかけてきた」と笑って昔話をしてくれました。妻すへとの間に五人の子供をもうけましたが、四人は幼くして亡くなり、唯一成人した次男で末っ子の亀太郎が戦争にとられ戦死するなど、とてつもない不幸に見舞われました。祖母Kが「兄や姉がみんな幼くして亡くなっていたから、『亀』太郎と長寿を願って付けたんだよ」と墓の前で話してくれた気がします。私は幼いながらに「結局名前負けしたんだなあ」と失礼な事を思った記憶があります。子が全て亡くなった夫妻は、妹が嫁いだ松井家から次男の哲二を養子に迎え、弟の甚市家からKを嫁に迎えて家を継がせました。

養曽祖母の四代目妻すへ[明治18~昭和29]は、梶家の三女です。上述の伯父の従兄弟は、「優しかった記憶がない」と笑っていたので、夫婦共に幼い親族の子供達からは怖がられていたのかもしれません。また、祖母Kも姑であるすへが「大変厳しかった」と言っていた、と親族の誰かが言っていました。

高祖父の三代目甚右衛門[弘化4~昭和2]は、二代目源次郎の長男です。市川家のみでみれば、養曽祖父源十郎の父なので、養高祖父なのですが、五代目夫妻(祖父母)の実の祖父でもあるので、他家を経由して私の実の高祖父と言えます。私がとれた除籍謄本で最もさかのぼれる戸主です。三男四女に恵まれ、その誰もが成人し、子をもうけたというのは珍しいのではないでしょうか。そのお陰で「うちは親戚がとにかく多くて」と今でも祖母Kは口にします。また、祖母が「じんにぇもさん」と、現代にない発音でこのご先祖を呼ぶのが新鮮でした。

高祖母の三代目妻者つ[安政3~昭和2]は和田家の長女です。名前の「者」は変体仮名で、「者」を崩した字「は」になります。

高祖父の父の二代目源次郎[文化13~明治43]は、初代庄右衛門の次男です。墓誌や哲二図には源治郎とありますが、戸籍は源次郎になっています。大変長生きしてくれたお陰で、甚右衛門の戸籍に入っていますが、戸籍から算出される没年齢と、墓誌にある没年齢にちょっと差があるのが気になります。明治24年に隠居し、甚右衛門に家督を譲りますが、源次郎戸主の除籍謄本は現時点でとれていません。そのため、甚右衛門以外の子供はほとんどわからず、哲二図頼りになっています。次男で二代目なので、幼い頃に亡くなった長男が墓誌に現れても良さそうなものですがありません。哲二図によると、上に清左衛門という男子が居るようで、中村家というところに養子に行っているようです。長男なのに養子に行くものなのかなあとも思うのですが、たかだか二代目くらいではあり得ることなのかもしれません。
「員弁町史」には、明治9年の伊勢暴動でに小屋を焼かれた被害者として名が挙がっていました。

高祖父の母の二代目妻りゑ[文政11~明治43]は、市川又左エ門家の長女です。同じ市川姓で近所のようなので、夫源次郎とは恐らく親戚同士なのでしょうが、証拠はありません。

高祖父の祖父の初代庄右エ門[寛政3?~明治6]は、市川家で遡れる最も古いご先祖です。戸籍では、源次郎の父としてのみ名前が現れます。墓誌と哲二図には庄助とありますが、他の家の戸籍の例で、隠居したら○右衛門から○助と改名した例を見たので、同一人物だとみなします。初めて哲二図を目にした時、「一番の先祖が庄助って、何だかぱっとしない名前だなあ」と思いました。この度除籍謄本をとってみて、「庄右衛門」という立派な名前(と、私がなんとなく感じてるだけ)があってちょっと嬉しかったです。私が勝手に初代と呼んでいますが、どこからの分家なのか不明で、現当主である伯父も知らないようです。ただ、近所に市川家はいくつかあり、そのうちの一つ、うちから最も近い別の市川家は法事に来たり、「うち(市川家)よりも古いらしい」と伯父が再三言っているのでいずれ紹介してもらおうと思います。

高祖父の祖母の初代妻里と[寛政2?~安政3]は、墓誌にのみに現れます。なぜか哲二図にも初代のみ庄助一人の名前で表されています。戒名から女性であることはわかりますが、墓誌には続柄が書いていません。ただ、墓誌で一番古いご先祖で、享年から生年を計算すると庄右衛門の妻でほぼ間違い無いとみています。なんと読むかはわかりませんが、おそらく「里」は元は変体仮名で「り」と読んで、「りと」なのではないかと考えています。

【今後これ以上遡るのに考えられる方法】
・上述の、戸籍や哲二図での繋がりは確認できないが、法事にも来ていて、うちよりも古いという市川家を訪ねる。
・寺ははっきりわかるのだが、伯父が過去帳は焼けていると言っていたこと、格式が高い寺のようで、住職は本山から任命されており、色々大学などで講義をしたりして多忙そうなので、とりあってもらえるかが心配。
・香典帳なるものがあるらしい。伯父には、それを引っ張り出してくれるよう頼んであるので、待ち。

他に興味深い情報としては、市川家の裏には、古い塚があり、昔から城跡とも私は聞かされており、昔祖母Kはそこから骨かなんかを見つけて届けたとも聞いた気がします。「員弁町史」に、その城の絵図が掲載されており、城主「多湖」、その周りに「市河」「輪波」「辻」の名前がなんとか読み取れました。この地域に多湖姓は非常に多く、近くにはとても大きな多湖家の屋敷がありました(現在は宅地として分譲され何もなくなってしまいました)。「輪」違いですが和波家、辻家もこの地域の名家として耳にしたことがあります。「河」違いですが、城の縄張り内にある現市川家と関連がある気がしてなりません。ただ、城と言っても、中世の城、城主多湖氏は豊臣秀吉に降伏して、小田原攻めで戦死したというほど古い話です。どこに聴けばいいのかわかりませんが、教育委員会か、郷土史などを研究されている方に聴けば面白そうな話が聴けそうです。

※何かご存知の方、関わりがありそうな方々メールまたはコメント宜しくお願いします。m(__)m
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